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札幌ラーメンストーリー

札幌ラーメン

【特徴】

表面が油脂で覆われた極熱の味噌ラーメン。総称「札幌味噌ラーメン」。中華鍋でタマネギ、挽肉、もやしを炒め、味噌ダレを入れて鍋で煽り、最後に豚骨ベースのスープを入れて馴染ませる。麺は数日間熟成させた、密度が高く、プリっとした食感の、黄色味を帯びた腰の強い中太縮れ麺を使用するのが一般的。中華鍋で具材とタレを煽ることによって、野菜はシャキッと、タレは香ばしく仕上がる。一食で満腹になるようなボリュームがある。

 

【成り立ち】

【戦前、竹家食堂の支那そば】

札幌で誕生したのは、味噌ラーメンではなく「支那そば」からである。大正10年10月に、北海道帝国大学(現北海道大学)の正門の前にある「竹家食堂」がオープンし、中国からの留学生が出入りしていたところ、室蘭の船員が中国山東省出身、ロシア領のニコライエフスクで料理人をしていた、王文彩を紹介。当時、帝政ロシアの革命運動で頻繁に暴動が方々で起きていた。ソ連のパルチザンと日本政府との衝突、尼港事件も勃発している。度重なる暴動で、王は避難し、サハリンを経由して室蘭に到着したのだった。本格的な中華料理は留学生に受け、大学の職員にも人気があり、大繁盛。だが、「支那」に対する差別が根強く、「支那そば」を侮辱するものもいたため、女将が、王が発する「好了(ハォラー。はい、の意味)の「ラー」の音を取り、中国留学生に相談し、当て字で「拉麺」と名付けた。王の給料は当時一般的な料理人の10倍近くで貯金ができたのか、独立のため店を辞める。その後大正14年に、竹家食堂の大久オーナーは、「芳蘭」という支店を出し、横浜の南京街から料理人を招き、チャーシュー麺を繁盛させる。

昭和4年大阪の道頓堀から王万世という中国人が喫茶店「松島屋パーラー」に採用され、ラーメンを提供し、評判となる。そのころ、定まった寺に所属していない住職、吉田春岳という僧侶も麺を作り、喫茶店に卸していた。二人の王と住職吉田の麺が札幌の喫茶店で出回っていたのだ。

屋台もこの頃から出回っていたが、第二次世界大戦に入るにつれ、原材料の入手が困難になり、昭和18年ごろにはラーメンの姿は見られなくなる。

【戦後、屋台からラーメンが再登場】

終戦後、食べ物を求める闇市が二条市場近くにあり、中国の旧天津で土木請負業をしていた松田勘七が、屋台を開く。知人の製粉業者を頼り、製麺機、リヤカー、大鍋などを準備。中国人たちがスープを作るのに、豚の頭や足の爪などを常に火にかけているのを思い出し、肉屋で豚の骨を安く買い、ラードを仕入れる。長時間煮込むと骨の髄からゼラチン質まで溶け出し、白っぽく濁ったスープができた。それに日本人が好む醤油を足し、ラーメンを作って売ったのだった。

昭和22年春、狸小路に「だるま軒」という屋台が出没。店主は西山仙治である。富山県生まれ、東京で中華料理とそば、うどんなどの麺類の修業を積み、札幌で支那そばを売ろうとしたが、瞬く間に「ラーメン」として売れてしまった。そして昭和23年、南3条通りから南5条まで、屋台街ができ、満州鉄道の機関士として大陸を走っていた引揚者、大宮守人がつぶ焼きを売っていた。松田勘七は大宮をラーメンの道へと導く。大宮は松田の指導を仰ぎ、ラーメンを作り始めた。後の「龍鳳系」と「三平系」となる。

大宮は麺をボイルしている間、手持無沙汰の所作が気になり、フライパンでのパフォーマンスを考える。最適なのが玉ねぎだったが、コスト高ゆえ、もやしに少量の玉ねぎを炒めることにした。最初から最後までリズムよく一杯のラーメンを完成させることができた。

【味噌ラーメンの登場】

客を収容できなくなるほど繁盛した大宮の店は、昭和26年に「味の三平」として南7条西4丁目に移転する。当時は松田の教えを忠実に守り、醤油味のラーメンを作っていたが、裏メニューで札チョン族という単身赴任者向けに豚汁に麺を入れてだしていた。美味いというものもあれば、無いという者もいるため、メニュー化まで踏ん切りがつかずにいたところ、経済雑誌リーダーズダイジェストにて、アメリカのスープメーカー、Maggy社の社長が「日本人は味噌の真の効用を忘れてはいないか」と問題提起をしているのを読み、味噌ラーメンの開発に取り組んだ。そのころ、文化雑誌「暮らしの手帖」の編集者、花森安治に試食してもらう機会があり、これを食べた花森が暮らしの手帖32号に掲載、味噌味の「札幌ラーメン」が世に広まることとなる。

昭和37年、映画関係の仕事をしていた大熊勝信がラーメン店を開く。前職ゆえ、広告宣伝の仕方に長けており、昭和40年からは東京と大阪の高島屋デパート物産展にて、味噌ラーメンの実演販売を始める。これが功を成し、全国へ回り、札幌味噌ラーメンが世に広まった。

【ラーメン横丁】

引揚者が多かった公楽ラーメン横丁を第一次ラーメン横丁とするならば、昭和46年、すすきのの真ん中(南5西3)にできたのが第二次ラーメン横丁、すすきの警察署横にできたのが、第二次半ラーメン横丁といえる。味の品質を保ち向上させるべく、「味の会」を設立し、名だたるラーメン職人たちが札幌ラーメンを支えてきた。

昭和64年には村中明子氏が「純連(すみれ)」を開業し、その後、長男の教愛氏が「純連(じゅんれん)」、三男の伸宜氏が「すみれ」を持ち、日本中にその名を轟かせている。

最近は札幌のラーメンも多様化の傾向にあり、札幌のラーメンは依然札幌味噌ラーメンとして定着してはいるが、醤油味、塩味、つけ麺を一押しする店もある。麺も中太縮れ麺だけではなく、細麺、太麺、縮れ麺、ストレート麺、とバリエーション豊か。その日の気温湿度によって配合を変える「Japanese Ramen Noodle Lab Q」のような自家製麺も増えてきた。スープに至っては、清湯、濃厚豚骨、鶏白湯、煮干し系、海老系など様々なタイプがある。トッピングの具材も醤油味のジュレを載せるなど、フレンチの技法を取り入れる店も出没。店主のこだわりと店のサービス、ホスピタリティが客を呼ぶ、よりオリジナルの麺が求められている。

(参考文献:

これが札幌ラーメンだ 北海道新聞社編

さっぽろラーメンの本 北海道新聞社編

日本ラーメン秘史 大崎裕史    日本経済新聞出版社

ラーメン大好き!! 東海林さだお 編 新潮文庫)

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